石田 三成『知将の緊急災害対策』後編

■決壊箇所をいったん米俵で防ぎ
住民の作った土俵と交換

大雨の影響で氾濫した淀川。豊臣秀吉は、家臣の普請(工事)奉行に応急措置を命じたが、氾濫の凄まじさに普請
奉行は二の足を踏んだ。

そんなとき五奉行の一人石田三成は、淀川の応急処置役を自ら引き受けた。そして、秀吉から米俵を借り受けると、米蔵から次々と米俵を運び出し、洪水の被害を受けた村の住民に告げた。

「この近くに、城から米俵を持ってきた。それを使って、川の決壊箇所を防げ」

と言った。住民たちはびっくりした。

「米俵で水を防ぐのですか」

「そうだ。水が止まったら、おまえたちは丈夫な土俵を作れ。それができたら、米俵と交換してやる」

住民たちはさらに驚いた。しかし目を輝かせた。当時の住民は、作った米のほとんどを年貢として城に納めなければならなかった。来年の種籾を残すと、自分たちが食べる分はほとんど残らない。そのため住民たちは、自分たちで作りながらも、普段はムギ・ヒエ・アワなどを食べている。そんな状況だったから、

「水が治まったら、米俵を土俵と替えてやる」

という三成の言葉は、住民たちの心をはずませたのである。

「米が食える」

という希望が持てた。積んだ米俵がどんどん決壊箇所に運ばれた。積み終わると、やがて水が止まった。そして、
空が晴れてくると、水位の上昇もおさまった。水はどんどん引いていった。そのころは、すでに三成の命令で住民たちは
せっせと土俵づくりにいそしんでいた。

土俵が運びこまれると、三成は持っていた槍の先で俵を突く。そして、丈夫な俵は、

「よし、米俵と交換してやる」

と言った。しかし手をぬいた作り方をした俵は、

「もう一度作り直せ」

と突き返した。いい加減な俵を持ってきた住民は赤面し、すぐ戻って頑丈な俵に作り替えた。こうして応急措置は
無事に終了した。

イラスト

■手柄は主君に、同僚の面目も保ち
周囲の人間関係を円満に収める

三成が大坂城に引き上げるとき、住民がみんな集ってきて感謝の意を表した。

「おかげさまで、水が防げ、またお米の俵がいただけて本当にありがとうございます」

と礼を言った。ところが三成は首を横に振ってこう言った。

「違う、おれの考えではない。おれは、秀吉公のお考えをただ実行しただけだ。礼を言うのなら、秀吉公に申し上げよ」

そう言って去っていった。2、3日後に、住民代表が城にやってきた。そして、

「秀吉公にお礼を申し上げたい」

と告げた。門番が取り次いだ。住民たちからたいそう礼を言われて秀吉は大満足だった。しかし心の中では、

(三成め、なかなかやりおるな)

と思っていた。三成は自分の頭がいいことを知っている。しかしすでにこの件では、普請奉行の顔をつぶしている。
そのために三成は、自分の頭のよさをわざわざ誇るようなことはしない。そして、成功した米俵による緊急災害対策も、

「すべて秀吉公のご指示であり、お考えであり、自分はその指示に従ったまでだ」

という言い方をした。いってみれば、

「部下として自分は現場で苦労はするが、その功績は主人である秀吉公に捧げる」

ということだ。このことで、普請奉行の面目も立つ。さらに応急措置を行った三成は、すぐ城に戻って普請奉行に、

「私がやったのは単なる応急措置です。本格的な水防工事は、やはり奉行の貴殿にお願いしたい」

と告げたのだ。秀吉もそう命じた。当初しりごみしていた普請奉行は、今では勇み立っている。知将というのは単に自分の頭のよさを世の中に知らすだけではだめだ。やはり、

「まわりとの人間関係をどう円満に収めるか」

ということも大切なのである。

いしだ みつなり(1560〜1600)

戦国武将、秀吉家臣、佐和山城主。近江国の生まれ、15歳のときに当時長浜を領していた秀吉に認められ側近の家臣となる。この時の「三椀の才」の逸話は有名。秀吉が天下を治めた後、五奉行の一人として活躍する。
秀吉の死後、確執していた徳川側と1600年に関ヶ原の合戦を迎える。しかし善戦むなしく大敗し、逃走中に
捕らえられて六条河原で処刑される。

どうもん ふゆじ

どうもん ふゆじ

昭和2年東京都生まれ。東京都庁の重要
ポストを歴任。退職後、執筆活動に入り、
主に歴史小説、エッセイを多数発表し、第
43回芥川賞候補にノミネートされる。日
本文芸家協会、日本推理作家協会会員。