石田 三成『知将の緊急災害対策』前編

■“知将”石田三成
三椀の茶で秀吉の側近に

現在でも同じだが、リーダーには“知的人物”と“情的人物”の二タイプがある。知的人物というのは、

「頭のよさによって、その存在感を示すリーダー」

であり、情将というのは、

「部下に対する愛情(心)によって存在感を示すリーダー」

のことだ。戦国時代、豊臣秀吉に重用された石田三成は、まさに“知将”の典型だったと言っていい。子供のときからその頭のよさを人びとに示した。

とりわけ豊臣秀吉と三成が出会ったときの逸話は有名である。あるとき秀吉は、鷹狩の帰りに喉が渇いて寄った近江(滋賀県)の小さな寺で、茶を所望した。このとき出てきた小坊主は、最初にぬるい茶をどんぶり一杯に盛って持ってきた。秀吉は飲み干した。そしてもっとくれと言った。小坊主は奥に入ると、今度は少し熱めの茶をさっきより小さな器に入れて持ってきた。秀吉はそれも飲み干した。そしてもう一杯くれと言った。すると小坊主は、すごく熱い茶を
小さな器に入れて持ってきた。秀吉は、この小坊主の才気に感嘆した。そして住職にかけ合い、この小坊主を貰い受けて家臣にした。これが石田三成だ。

■豊臣政権を支える奉行として
淀川の氾濫も見事に収束させる

イラスト

秀吉はすでに主人になった織田信長から、

「これからの大名は、地域の経営も考えなければだめだ」

と、単なる合戦に強いだけではなく経営感覚を持つことを教えられた。そこで、近江出身の石田三成は遺憾なくその才幹を発揮した。三成はやがて豊臣政権の行政や財政を実際に行う「五奉行」の一人に登用される。もちろん“知将”としての才能を秀吉が高く評価したためだ。

その三成が、知将ぶりを遺憾なく発揮したエピソードがある。ある年、大坂地方が大雨続きで淀川が氾濫した。被害が次々と大坂城主である秀吉のところに報告された。秀吉は城の天守閣から淀川を見下ろし、事態が重大なことを知った。そこで、普請(工事)奉行に、

「すぐ応急措置を講ぜよ」

と命じたが、見下ろす淀川の氾濫の凄まじさに普請奉行は二の足を踏んだ。そして、

「水が引くまでは、手の打ちようがありません」

と言った。秀吉は不機嫌になった。このとき、

「わたしが応急対策を講じましょうか」

と進み出たのが三成だ。秀吉は三成を見ると、

「やれるか」

と聞いた。三成は、

「やってみます」

とうなずいた。秀吉は、

「あの凄まじい洪水をどうやって止める?」

と聞いた。三成は、

「お城のお蔵から米俵を貸していただきとうございます」

と言った。

「米俵を?」

聞き返す秀吉は眼をみはった。まわりにいた武士たちは顔を見合わせて眼で(石田はバカなやつだ)と言葉にならぬ会話を交わした。しかし秀吉は器量が大きい。米俵を使うという三成に、何か考えがあるのだろうと思った。そこで、

「よし、貸してやる」

とうなずいた。三成は部下に命じて、米蔵から次々と米俵を運び出させた。そしてある地点までいくと、洪水の被害を受けた村の住民に告げた。

「この近くに、城から米俵を持ってきた。それを使って、川の決壊箇所を防げ」

と言った。住民たちはびっくりした。

決壊した淀川を貴重な米俵で防ぐなど、住民たちにとっては思いもつかないこと。果たして三成は、この災害をどのような知恵で乗り切ろうとしたのか。

続きは次回に乞うご期待。

いしだ みつなり(1560〜1600)

戦国武将、秀吉家臣、佐和山城主。近江国の生まれ、15歳のときに当時長浜を領していた秀吉に認められ側近の家臣となる。この時の「三椀の才」の逸話は有名。秀吉が天下を治めた後、五奉行の一人として活躍する。
秀吉の死後、確執していた徳川側と1600年に関ヶ原の合戦を迎える。しかし善戦むなしく大敗し、逃走中に
捕らえられて六条河原で処刑される。

どうもん ふゆじ

どうもん ふゆじ

昭和2年東京都生まれ。東京都庁の重要
ポストを歴任。退職後、執筆活動に入り、
主に歴史小説、エッセイを多数発表し、第
43回芥川賞候補にノミネートされる。日
本文芸家協会、日本推理作家協会会員。