人の器、経営者の才覚 坂本 竜馬『平和もモノの交流から-竜馬の海援隊-』前編

■近代日本の夜明け
坂本竜馬が抱いたものは

坂本竜馬が海援隊をつくったのは、慶応三(1867)年4月のことで、政局はいよいよ緊迫の度合いを深めていた。薩摩藩や長州藩などのいわゆる西南雄藩による、

「徳川幕府の武力打倒」
は、完全に政治的日程に上っていた。しかしこの間においても、坂本竜馬は、

「国内戦争は絶対に起こすべきではない。日本人同士が血を流し合うことなど、とんでもない話だ。話し合いで、平和に政体の構造改革を行うべきだ」

と考えていた。かれの構想は、

●徳川幕府を一度解体する。

●国民の総力をあげた新しい政府をつくる。

●新しい政府には議会を設ける。

●国内の有能な人物を政府の役人とする。

●海外交易を活発にする。

●そのためには、日本も大きな船をつくり、積極的に海外に乗り出していく。

というようなものであった。

■「モノの交流」から始まった
薩摩と長州の連合

イラスト

坂本竜馬といえば、イヌとサルのような険悪な状況にあった薩摩藩と長州藩の手を結ばせ、

「薩長連合」

を成し遂げたことで有名だ。しかしこの連合のきっかけは、実を言えば、

「モノの交流」

にある。薩摩藩は、倒幕資金を稼ぐために南方諸島の黒砂糖を主な産品にしていた。長州藩は“長州の三白(あるいは四白)“といって、砂糖・塩・ローソク・米などの生産に力を入れていた。長州藩には、さらに死んだ牛や馬の骨が大量に出た。薩摩藩はこれに目をつけた。それは、南方諸島で栽培するサトウキビの肥料に、牛や馬の骨が非常にきくからである。このころはまだ、薩摩藩と長州藩は別段いがみ合っていたわけではないので、薩摩藩は長州藩に、
「そちらの牛や馬の骨を当方の砂糖の肥料に使いたい。ぜひ分けてもらいたい」

と申し入れた。長州藩は承知した。いってみればこれが、

「薩長連合のきっかけ」

である。坂本竜馬はこのことを知っていた。だから、

「薩摩藩とは絶対に手を結ばない」

と息巻く高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)などを説き伏せて、ついに政治的軍事同盟を結ばせたのである。しかし
その発端は、お互いに必要とするモノの交流だった。いまでも同じだが、戦争状態にある国でも、平和への道は、

●お互いに必要なモノの交流

●次に文化の交流

●次に市民同士の相手国への訪問

が行われ、やがて、

「国家と国家の平和条約」

にいたる。これは現在の日本とロシアの関係をみていてもよくわかる。ロシアと日本は、未だに平和条約が締結されていないが、実際には今日の平和時代において、経済的交流や文化の交流、あるいはお互いの訪問などが実現している。しかしその発端は、やはり日本海を通じて行われた

「物資の交流(貿易)」

であったことは間違いない。

さて、坂本竜馬が、海外との貿易を考えて組織したという海援隊とは、いかなるものか…。

次回につづく

さかもと りょうま(1835~1867)

幕末の土佐藩士。藩郷士の家に生まれ、18歳で江戸に出て北辰一刀流を学ぶ。江戸で尊王攘夷論者と交友した竜馬は、脱藩して勝海舟に入門。神戸海軍操練所で修業後、海運貿易会社、亀山社中(後の海援隊)を組織し、薩長同盟を締結させる。その後も倒幕運動に東奔西走し、土佐藩の重臣後藤象二郎を動かし「大政奉還」を実現させた。しかし、維新の夜明けを目前に京都近江屋で幕吏の凶刃に倒れる。

どうもん ふゆじ

どうもん ふゆじ

昭和2年東京都生まれ。東京都庁の重要
ポストを歴任。退職後、執筆活動に入り、
主に歴史小説、エッセイを多数発表し、第
43回芥川賞候補にノミネートされる。日
本文芸家協会、日本推理作家協会会員。